アニメ作品「リコリス・リコイル」の主人公は、裁定者になることを拒否する人物として描かれているようにみえます。
関連
- ◯
- 物語の構成:内容・行為・言説(現代版)
構造
まずこの物語は、構造が面白いですね。
日本のアニメには<日常系>というジャンルがありますが、それは”憎悪も殺戮もない”世界を描くものですーーこの物語は、その<日常系>を現実の日本に再現するならどうするか?、を追求したようにみえます。[※1]
その答えのひとつが、犯罪を未然に防ぐ組織(”DA”)の存在でしょうか。
ただしこの組織、犯罪が起きる前に<未遂の犯罪者>を消してしまいますーーしかもそれを実行するのが、組織に育てられた孤児たち(”リコリス”)という……
なのでこの世界の根底には、司法と行政(検察・警察)の未分、保安処分・予防拘禁、子供兵士・児童搾取、といった、壮絶な背景がありますーーしかもそれは権力により隠蔽されているので、ふつうの人たちには平和な日常しかみえません。つまりこの<もうひとつの日本>の人びとは、”憎悪と殺戮”のもと、作られた<日常系>の世界に生きている、というわけです……
そしてその”殺戮”と”日常”の狭間に、主人公(”千束”)たちがいます。
主人公はもともとその組織で育った孤児のひとりでしたが、ある理由から人を殺すことにためらいを覚え、相手を死なせないという決意をします(”不殺”)。そして、組織を左遷されたもうひとりの相棒(”たきな”)とともに、カフェ(”喫茶リコリコ”)で働きながら、裏の家業をこなしていきますーーつまりこのカフェが、表では楽しい日常が繰り広げられ、裏では犯罪者の闘争に巻き込まれる、二面性のある舞台になります。
とはいえ物語の空気は、荒んだものというより、むしろ緩やかなものです。
重点がおかれるのは、あくまで主人公と相棒との交流、そしてその成長です(とくにたきなは、DAへの忠誠から、すこしずつ千束に影響され、ともに歩みはじめます)。そこに加味される、正統派のアクションとテンポのいい日常描写、ときおり挿入される、世界の構造への批判(それはこの日本の現実とも重なる部分があります)ーーきわどいバランスのうえで成り立っている物語、といっていいかもしれません。
- ※1
- じっさいの構想の流れは、先に原作者(アサウラ)のシリアスな設定があり、それを監督(足立)が、日常系の物語に軌道修正しています。
検討:主人公は甘いのか?
主人公はその決意から、犯罪者を殺すことはありません。それどころか、逃がすことがたびたびありますーーかれらが、また罪を犯すかもしれないのに。
しかし主人公が犯罪者を殺せば、罪と罰を独自の基準で定めて遂行している組織(=DA)と同じになってしまいますーー主人公にそれをさせるわけにはいかないはずです(それを端的にあらわす言葉が、千束の”だれかの時間を奪うのは気分がよくない”、でしょうーーこれは、人の人生の裁定者になることを、明確に拒否する言葉です)。[※1]
ほんらい罪と罰は、社会の人たちがみなで決め、みなでその責任を負うべきもので、個人に負わせてはならないもののはずです。またかりに人の命を奪うことを強いる状況があるなら、それこそ社会の人びとの合意(現実と理想、実証と規範)が不可欠でしょうし……しかもこの物語の主人公は、大人が守るべきはずの子供なわけですしね。[※2]
しかしこの物語の日本に、そのような合意はありません(それをあらわす言葉が、登場人物の刑事の、千束たちの一見楽しげな様子をみた次の言葉でしょうかーー”ああいう子が安心して暮らせるなら、だれがなにを隠蔽してようがなんだっていいだろ”)ーー人びとが社会を守ることをひとごとのようにみるかぎり、主人公の公正であろうとするふるまいですら、宙に浮いてしまいます。
このギャップが、語り手から受け手への問いかけかもしれませんが。[※3]
- ※1
- その実践者はイエス(”人を裁くな”)が有名ですが(ただしこれはこれで議論があるものです)、大衆文芸でもそのような主人公はめずらしくありません。たとえば山本周五郎の赤ひげこと新出去定(”罪を知った者は決して人を裁かない”)や、チェスタトンのブラウン神父(”本当の罪を犯した人たちをわれわれに残してください”)、などでしょうかーーとくにブラウン神父は、かれが救おうとする罪人を”卑劣な、唾棄すべき”と形容し、世間の許しと宗教の赦しの違いを明確にみせていますーーただ、いずれの作者もキリスト教へのあこがれがあったようですし、じっさいにチェスタンは、のちにカトリックに改宗しています。
- ※2
- 一般の物語のヒーローは、その合意の上で行動を決断しています。
- ※3
- この物語には、千束のほかにもうひとり、DAのカウンター(”真島”)がいます。かれは千束とはまったく逆のやり方ーーつまり暴力で、DAに反抗する立ち位置にいます。そして千束と真島には、その背後に狂言回し(”アラン機関”)の存在があり、また千束には、その将来を強制する支援者(”吉松”)と、自由にさせようとする支援者(”ミカ”)がいます……さまざまな思惑が交差するストーリーではありますね。
検討:主人公は冷たいのか?
この物語では、裏で孤児たち(”リコリス”)が<未遂の犯罪者>を消して回っていますーーとうぜん反撃に出る者もいるので、孤児たちにも多くの死者が出ますーーそしてこの物語は、表の日常を描くときは緩やかですが、裏の殺戮を描くときは容赦しませんーーその死をリアルに描きます。
いっぽう主人公はといえば、孤児たちの死から、距離をおいているようにみえるときがあります。
主人公は、自身の信念ですら、個人的なものと考えています(主人公の信念はあくまで”気分”なので)ーーこれは一方で、あいまいな態度にみえますが、他方では、それぞれの人の感じ方・考え方を否定しない態度です(とはいえ、自分で考えない態度・他人に責任を押しつける態度には反発しますけど)。[※1]
しかも主人公は、もともと孤児たちがいる組織の出身なので、そこでの生き方がよく分かっています。なのでその人生を、すべて否定することは難しいはずですーーじっさい、左遷された相棒が組織に戻りたがっていたとき、主人公はそれを否定せず、むしろ協力しようとしていました。
ここでも主人公は、人の人生の裁定者にならず、それぞれの生き方を否定しようとしません(それがたとえ不条理に思えるものであっても)ーーそこにあるのは、諦めに似たものでしょうか?
とはいえほんらい、子供兵士はその存在を許してはいけないものです。
このギャップもまた、語り手から受け手への問いかけかもしれませんね。
- ※1
- じっさい、相棒となったたきなの最初の行動は、千束の思いに反するものです(仲間を救うために、犯罪者たちを躊躇なく銃殺しています)。それでも千束は、たきなが自分で考え行動したことを評価しました。いっぽう、命令にだけ従う元同僚(”フキ”)や、責任を部下におしつける上司(”楠木”)へは、怒りを露わにしています。
補足
あるいはこの<もうひとつの日本>で、司法を確立し、行政から分離する過程まで描くべきでしょうか?……ものすごい大河ドラマになってしまいそうですが。[※1]
- ※1
- たとえば明治期の日本で司法制度を確立した、江藤新平のようにーーとはいえその最期は、法のもとの正義とはとてもいえないものでしたが。